2011年4月11日月曜日

一ヶ月の時間が過ぎて

今年から、岩手県盛岡市の大学に赴任した友人がいます。大震災の後の交通もまだ回
復しない中を、3月末に引っ越していきました。
彼女から4月5日に初メールが届きました。
「長野では、ネット接続をwimaxでやっていたのですが、こちらへ来たら、家も職場
も「圏外」で愕然。
携帯に転送をかけているのでメールは読めてはいるのですが、なかなか思うように返
信できない日々でした。
きょうはやっと車が納車されたので、wimaxの電波を求めてマクドナルドへやってき
ました。」
4月7日の大きな余震があった後のメールでは、
「…なんだか盛岡の人たちには元気をもらい続けています。
停電で信号が止まってるのに、ごみ収集も郵便配達も平常通りで脱帽でした。
きょうは大きなイオンショッピングモールに買い出しに出て、車いっぱい日用品を買
いそろえたのですが、モールは活況を呈していて、被災地支援の取り組みがあちこち
にあり、なにくそ負けるもんか!という勢いさえ感じました。」
というような盛岡の様子を伝えてくれました。現地の皆さんは本当に寒い春をひたむ
きに過ごし、日々闘っているのだと思います。
彼女は「物のないのは我慢できるが、情報がないのが怖い」と書き込んでいます。
昨日は各地で知事選や県議選がありました。その結果は・・。強いもの、力がありそ
うなものに頼りたくなる気持ちはこんな時だからこそ、増幅されます。
寺島実郎氏(日本総研理事長)が対談で「笑顔のファシズムに気をつけよう。関東大
震災は大正デモクラシィに止めを刺した。方向感を見失った心理がしっかり束ねてく
れる力の願望になる。」と指摘しています。現在の災害ユートピアといわれるよう
な、みんなが何とかしたい、何が出来るかという気持ちの次にくる段階を今から考え
てきたいと思います。
大正12年に起きた関東大震災は10万人を越える人々の命を奪い、現在華やかなブ
ランド店が並ぶ原宿の表参道は、死者で埋まっていたといいます。
その頃、町では「おれは河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき」といった退廃的な歌が
はやり、復興して立ち上がった東京では、昭和8年ごろから「東京音頭」が大流行し
ます。人々は盆踊りに繰り出し「花の東京の真ん中で・・」と踊り狂います。その熱
狂は日中戦争へと繋がって行ったような気がします。
長く生きてきて、若い時には見えなかった時代の流れが少し見えます。大きな地殻変
動が起きたこの国では、政治も言論も文化芸術も今までのものがすべてとは言いませ
んが、嘘っぽく、リアリティを失っています。
これから変革していく時代の中で、再設計されなければならない社会の方向と守られ
るべき小さな人間の営みの継承を見届けたいと思います。
私の周りでも、30〜40歳代の女性たちが中心に「エネルギー問題研究会」を作っ
て勉強会を始めました。4月6日に一回目の勉強会を開き、これからも月2,3回の
ペースで続けていくそうです。14日(木)長野市西の門町のナノグラフィカで、原
発事故について考えるお母さんの会が開かれます。興味のある人は参加してくださ
い。
今日は震災から一ヶ月経って、まだ出口の見えない中で考えていることを、書いてお
きたいと思いました。     石川利江